「めがね」観てきました。
「かもめ食堂」って映画が大好きで、それと同じ監督やキャストが集まったってことで、楽しみにしてました。
南の島にやってきたヒロインのタエコが、宿の主人、一年に一度島にやってきてかき氷屋を開くおばあさん、破天荒な高校教師といった面々と過ごす、ゆるーい毎日を描いたお話。
前作同様、スロウでまったりとして不思議でほわほわんとする映画でした(抽象的過ぎですね笑)。沖縄の与論島で撮影したとのことで、映る空と海が超きれい。「たそがれる」って言葉が何度も出てくるんだけど、ほんとああいうところに行って、朝日が昇る前から夕陽が沈む後まで、海の前に座ってずーっとたそがれてみたくなった。出てくる料理がいちいちおいしそうだし、ビールやたらうまそうに飲む。空と海と料理とビール、それぞれが一級品なら後は何もなくていいね。はっ、岐阜には海がない。
*以下、ちょっとネタばれあり*
タエコは最初、たそがれる以外にやることがない島の環境や、毎朝不思議な踊りをする村人たち、共に食事をする時間を大切にする周りの人たちを受け入れることができず、スーツケースを持って宿を去る。けれど行った先の宿も合わず、長い道のりをスーツケースを引きずって歩いて戻る。
あのスーツケースはタエコが守るべきものを象徴していると考えることもできる。それは中に詰まった服や本といったモノであり、プライドであり、プライベートである。
だけど、歩いている途中、三輪車に乗って迎えに来てくれたおばあさんを見て、スーツケースを置いたまま、無言でその後ろに乗る。
その後は、タエコは少しずつこの島を、人を受け入れていき、たそがれることも楽しむようになっていく。昔自分が大切にしてきたものを置いてきて、空いたスペースで新しいものを受け入れていく。心の余裕。
島から離れる最後のシーンで、タエコはかけていた眼鏡を車から落とす。メガネはもうずっと後ろだ。
人は「めがね」をかけないで、社会を見ることはできない。その「めがね」とは、人生を通して身につけた、ものごとの見方のことだ。けれど、一度それを外してしまえば、ほら、空はこんなに青いのだ。海はこんなに青いのだ―
小林聡美いいね。40超えてもこんなにかわいい。
映画「憑神(つきがみ)」を観てきました。知り合いがやたら良いと言っていたので。以下紹介やら感想やら。ネタばれもあるかも。どこまでがネタばれかなんてその人次第だけど。
―有能だが縁がなく、今は実家に浪人として身を寄せているしがない下級武士の彦四朗。ある時、幸運が訪れると評判の稲荷神社を拝むが、実は勘違いで別の稲荷を拝んでしまっていた。哀れ彦四朗、「貧乏神」、「厄病神」、そして「死神」と、人の形をした神々が、一難去ってはまた一難、次々とやってくることになる―
この話の根底を流れているのは、「人情」と「因果応報」ではないだろうか。どんな苦難に陥っても優しさを忘れず、自分より周りの人のことを考える。そういった「人情」が周りの人々の援助につながり、また三人の神の心に響いていく。そして「宿替え」が起こる。これは神が彦四朗に替わって別の人にとりつくといったものだ。とりつくのは彦四朗の知人で、決まって「悪人」にとりつくことになる。「因果応報」ではあるが、しかし主人公はそれを良しとせず、心を痛める。
「貧乏神」、「厄病神」と宿替えで去って行き、難を逃れた主人公の元に、最後の神「死神」がやってくる。今度は誰にも肩代わりを望まず、潔く死ぬことを決心。しかし犬死はいやだ、せめて武士としての本懐を成し遂げてから死にたいと死神に願う。
命の短さに気付いて初めて、彼は人生の目的を探し始める。
彦四朗の純粋で一途な姿に、そして人情に溢れる行動に心を動かされ、自ら宿替えを行った死神。その相手は第十五代将軍徳川慶喜だった。しかし彼の家系は代々将軍の影武者としての役目を授かってきた。そのままにして自分が生き延びることもできたのに、主人公は死神が慶喜を殺すのを阻止する。そして慶喜の影武者として戦に加わり、今見つけた人生の目的のために、そして幕府の復興を信じる者たちのために散っていった。
「人生は儚い。儚いからこそ暗闇の中で光り輝くのだ」という台詞が印象的だった。死ぬ直前、戦の中、彼は笑顔だった。人生の目的を見つけた者は、そしてそれを成し遂げた者はこの上なく幸せなのだと思った。ふと「朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり」という孔子の言葉が思い浮かんできた。
人情味あふれる神々、そして主人公を取り巻く個性豊かな人物たちが、観ているものをぐっと引きよせる。重いテーマを扱っているのに重くなりすぎず、サクセスストーリーを観ているかのような爽やかさを与えてくれる作品である。