サークルの英会話のクラスで、「怖いもの」について考えた。色々なものについて「怖さ度」を評価した後、自分にとって一番怖いものを発表した。
「ねずみ」、「津波」、「他人の目に馬鹿に映ること」、「仕事を失うこと」、「一人でいること」。
何を幸せに感じるかによってその人の大切なものや価値観などがみえてくるが、逆に何を怖いと思うかによってもそれは見えてくる。とはいえ、「何が怖いか」ではなく、「なぜ怖いか」も聞かなければいけないであろう。
「死」が一番怖いという人もいた。同じ意見の人たちもいた。だが「何が」の部分は同じでも、「なぜ」の部分が違う。
「死んだ後どうなるか分らないから。」
「まだやりたいことがたくさんあるから。」
「残された家族のことが心配だから。」
僕だって怖い。やっぱり一番怖い。だけど、きっと他の人も同じだと思うけど、本当に怖いのは「死」ではなく、「死について考えること」ではないだろうか。
例えば、ガンになることについて考えるのは怖い。そして、実際になったらもっと怖いであろう。だが、死について考えることは怖くても、死んだら恐怖すら感じることができない。「永遠」と「停止」という言葉が唯一の交点をもつ場所。そこでは言葉が停止し、意味が停止し、世界が停止する。
人間は死について考えるために生まれてきた、何て言ったら悲しすぎるかな。
あっ、ちなみに「ねずみが一番怖い」って言ったのは某ネコ型ロボットではないよ。
搾りたての牛乳は温かい。
家に帰る途中、スーパーに立ち寄って、一本158円のパック牛乳を買う。それは新鮮さを前面に謳っているようなパッケージで、僕は妙に冷めてしまう。家に戻ってコーヒーを淹れ、熱々のコーヒーにさっき買った冷たい牛乳をなみなみと注ぐ。コーヒーと牛乳、どちらのアイデンティティも失われてしまった良く分らない飲み物を口に運ぶ。
―ベツニ、アナタデナクテモヨカッタ。
どれを買っても同じ。無機質な味。パッケージが違うだけ。牛乳は「冷たい」飲み物だと思っていた。
だけど僕は知ってしまった。搾りたての牛乳の温かさを。そのぬくもりを。
それを与えてくれる牛を。大きさを。鳴き声を。糞のにおいを。人懐っこさを。つぶらな瞳を。食べかけの草が口からはみ出しているかわいさを。
もし知らなかったのなら、知ってください。消費するのは一瞬だけど、そこに至るまでには面倒くさくて大変で、手間がかかっているのだということを。そうすれば、牛乳は温かくって有機的な飲物だということに気付くはず。
と偉そうに言えるほど僕は農業に関わっていないのですが、そんな都会大好きっ子な僕にこういったことを知る、感じる機会を与えてくれる「アジア学院」、「organic farm 暮らしの実験室」の方々に感謝です。
ウシ君、今日もありがとー!!(パペットマペットじゃないよ)
参考:
アジア学院 http://www.ari-edu.org/main.html
organic farm 暮らしの実験室 http://homepage.mac.com/oo000/kurasinet/oo/home.html
バイト先の女の子がやたら可愛い。でも、手を出すわけにはいかない。だって、彼女は…
まだ2歳だもの!!(泣)
というわけで(謎な導入)、バイトしている塾の経営者のお孫さんが可愛いんですよ。生まれたときから週に一回見ているから、その成長していく姿が微笑ましいし、また驚かされる。
最近は語彙が増えてきて、とにかくよくしゃべる。とたとたやってきて「ちぇんちぇー(先生)」と呼んでくれたり、「こんばんはっ」って挨拶してくれたり。アンパンマンとプーさんが大好きで、ペンを持ってきては「アンパンマン」と言い、描くようにせがむ。部屋にある色々なものを指して、名前を教えてくれる。笑顔が素敵で、特に何か食べているときが一番可愛い。野菜も好きで、肉じゃがを作って置いておいたらニンジンだけがきれいに食べられていた、何てこともあった。
そんな彼女、逆にものの名前を尋ねることも好きなんですよ。「こりぇなにー?」って。
あるとき、キャンディーの入った四角い缶を持って僕の所にやってきた。その缶の側面は、笑っていたり怒っていたり、それぞれ違う表情のドナルドの絵が描いてあるものだった。で、例の「こりぇなにー?」で僕に名前を聞いてくる。講師歴5年の中堅教師としては、この質問に答えられず彼女の信頼を損なうなんてことがあってはならない。僕は優しく、そして自信に満ちた声で答えた。「ドナルドだよ」。すると彼女はまた別の面を見せて、「こりぇなにー?」と聞く。もう一度「ドナルドだよ」というとまたまた別の面を見せて、「こりぇなにー?」。このやり取りは側面を一周しても終わることなく、延々と続いた。
つまり彼女は、それらがみんな同じ「ドナルド」だってことが分らないんですよ。
認知的側面から子供の発達を段階的に捉えた研究者に、スイスのピアジェがいる。彼は子供の認知発達を4つに大別して、そのうち0歳から2歳までを「感覚運動期」と呼んだ。この時期の最終段階として「ものの永続性の理解」がある。つまり、笑ったお母さんも起こったお母さんも同じお母さんであることが分かるようになるのだ。
彼女は2歳だからものの永続性は理解できているだろうが、やはりあまりなじみの無いキャラクターの、ポーズや表情が違う絵だと、同じものだと理解するのは難しいのかもしれない。
逆に言うとどんなに奇抜な格好をして、ゆがんだ表情をしたドナルドであろうと、そこから「ドナルドらしさ」を取り出して、「これはドナルドである」と判断できちゃう人間ってすごいよね。他にも、例えばプードル、チワワ、ドーベルマン、秋田犬、色々な種類の犬がいて、姿形もそれぞれ違うのに、それらをすべて「犬」ときちんと認識できることとか。
…やっぱイデア?
教育実習をしている間、気になったもの。それは「生徒の視線」。
生徒はどこで見ているか分らない。向こうはこっちに気づいても、こっちは向こうに気づかない時もある。そんな時、生徒はその場で声をかけずに、後日報告してくる。「先生この前~してたよね」といった具合に。「先生、昨日自転車こいでいたよね」なんてどうでもいいことでも、満面の笑顔で報告してくる。
なので、街中で何かをする時、視線をすごく意識した。スーパーで買い物する時も、100円の紙パックのコーヒーではなく180円くらいのちょいと贅沢な珈琲を買い、レジでは「袋はいりません」とさわやかな声で言った。
今年から新任教師として働いている友人も、街中でよく生徒に見られるので、引きこもりがちになったという話をしていたなぁ。いや、本当に「うかつ」なことができないんですよ。
僕は徒歩や自転車の時、信号無視をすることがある。だって明らかに自動車がこないのに赤信号で待ち続けるのって、馬鹿みたいじゃない?「ルールは人間のためにあるのであって、ルールのために人間がいるわけではない」とか思うわけですよ。
でも実習中、ひたすら信号を守った。背筋伸ばして直立不動で青に変わるのを待った。結構田舎だから交通量も少ないんだけど、それでも待ちまくった。だってどこで生徒が見てるかわからないじゃん、「先生」が交通規則を守らない訳にはいかない。
芸能人でも何でもないのに、こんなに視線を意識しないといけない「先生」という職業。でも先生はというのは生徒にとって重要なロールモデル(行動の規範となる存在)だもん、当然だよね。
いつだれに見られても恥しくない人間になろう!…まずはこのやたら散らかっている部屋をなんとかせねば。ちなみにA型だよ☆
今日はvery surprisingなメールが来た。
去年の九月、オーストラリアのメルボルンに滞在していたとき、州の議事堂へ観光に行った。中を無料で案内してくれるツアーがあって、それに参加したかったの。議会は二院制で、下院では実際に議会が開かれていたので、しばらく見学してから上院の方へ行った。こちらは誰もいなくて、みんな代わる代わる議長が座る立派な椅子に座って記念撮影をしていた。僕は一人で来ていたし、まあ取らなくてもいいかと思ってその様子をみていたら、ある夫婦の奥さんが「hey you, 座りなよ、写真撮って後でメールで送ってあげるから」と言ってくれたので、せっかくだし撮ってもらった。その夫婦とは中を回りながら色々話をして、最後にアドレスを渡した後、お互いの旅の幸運を祈って別れた。
で、そんなことすっかり忘れていた訳ですよ。ところが、今日メールをチェックしたら、見知らぬアドレスから英語の件名でメールがあったのね。別にそれは珍しくなくって、よく迷惑メールとしてそんなのが来る。でもフィルターが設定してあるからそういうのは普通全部自動的にゴミ箱に行くんだけど、今回のメールはそうではなかった。「フィルターをかいくぐってきたのかな」と思いながら件名を見てみると、「photo of when you visit melbourne」。
―心当たりはあるにはあるけど、あれからもうすぐ一年だし、まさかねーと思って開いてみると…自分の顔が出てくる。Very surprisedですよ。顔文字で言うとこんな感じ。
Σ(゚д゚;) ヌオォ!?
だってあれだけ時間経ったのに、僕のアドレスと写真が残ってたんでしょ?それだけでもすごいのに、それをわざわざ送ってくれるなんて。「もう一年になるし、向こうも写真のことなんて忘れているだろうし、まっ送らなくてもいいか。」って僕なら思ったかも。
ささいなことかもしれないけれど、やっぱ旅は出会いと縁が重要だなと改めて思った。
最近連絡取ってないあいつにメールしてみようかな。